人生は、人との出会いで開かれていく。
帰国する日が近づいても、私の気持ちはすでに決まっていました。
「いつか必ずニューヨークへ戻り、この地で生活したい。」
帰国する直前、その思いだけを胸に、ニューヨークの日系人材紹介会社 Nippon Employment Agency のドアを叩きました。
まだ学生でしたので、すぐに就職できるわけではありません。
それでも、自分の将来につながる何かヒントが欲しかったのです。
その時、社長が40年以上アメリカで生活されていることを知り、
「アメリカに永住しながら働くという人生もある。」
そんな大きなヒントをいただきました。
それまで「アメリカに住みたい」という漠然とした夢だったものが、人材ビジネスという仕事を通じてアメリカに永住するという具体的なイメージへと変わった瞬間でした。
大学卒業後は、前職である人材派遣会社へ海外要員として入社しました。
「いつかアメリカへ戻る。」
その目標だけは、一度も変わることはありませんでした。
3年間勤務した後、1988年、念願だったロサンゼルス赴任が決まりました。
そして1990年にはニューヨーク支店へ異動となり、支店長として勤務することになりました。
この頃の経験は、現在の私の経営の原点になっています。
前職では、代表のご自宅でも丁稚奉公のように多くのことを学ばせていただきました。
経営のノウハウだけではありません。
それ以上に大きかったのは、経営者としてのライフスタイルを間近で見せていただいたことでした。
どのように仕事へ向き合うのか。
どのような人と付き合うのか。
どのような価値観で人生を歩むのか。
経営とは会社を運営する技術だけではなく、生き方そのものなのだということを教えていただきました。
そして、
「将来は自分もこのような人生を送りたい。」
そう強く思うようになりました。
人は、自分が見たことのない人生を描くことはできません。
だからこそ、自分が理想とする人生を歩んでいる方と出会うことが何よりも大切なのだと思います。
1991年、個人で永住権を取得すると同時に会社を設立しました。
しかし、当時はまだ前職に在籍していました。
利益相反を避けるため、人材紹介業ではなく、貿易業と統計調査業務を副業として行いました。
そして3年後。
満を持して1994年、マンハッタンでMAX Consulting Group, Inc.として人材紹介ビジネスをスタートしました。
振り返ると、独立は突然思いついたものではありません。
1984年の留学。
内田氏との出会い。
Nippon Employment Agencyとの出会い。
前職で代表から学んだこと。
その一つひとつの経験が積み重なり、1994年の独立へとつながりました。
どれか一つ欠けていたら、今の私は存在していません。
私は、「人生は人との出会いで開かれていく」と信じています。
そして同時に、「誰と時間を過ごすか」が人生を大きく左右するとも思っています。
前向きな人といれば、自分も前向きになります。
夢を語る人といれば、自分も夢を描くようになります。
反対に、否定的な考え方ばかり聞いていると、自分の可能性まで小さくしてしまいます。
人生は、自分が選ぶ環境と、出会う人によって大きく変わる。
35年以上アメリカで生活してきた今、その思いはますます強くなっています。
改めて感じるのは、私が今こうしてニューヨークで暮らし、仕事をし、自分の会社を経営できているのは、多くの方々との出会いと支えがあったからということです。
何よりもまず、両親に感謝しています。
そして、私の人生を大きく変えるきっかけを与えてくださった関西外国語大学にも、心から感謝しています。
志望していた大学へ進学できたことも、親のおかげです。
交換留学は、いわゆるスカラーシップ制度で、渡航費を除くほとんどの費用を大学が負担してくださいました。
しかし、当時は今とはまったく違う時代でした。
インターネットはありません。
電子メールもありません。
もちろんスマートフォンもありません。
家族との連絡は、手紙か高額な国際電話だけでした。
留学へ出発する日には、クラスメートが伊丹空港まで見送りに来てくれました。
今では考えられないほど、人と人とのつながりが温かい時代だったように思います。
最近、1984年当時の為替レートを改めて調べてみました。
当時は1ドル約240円。
今の若い世代の方には、なかなか実感しにくい数字かもしれません。
当時の会社員の平均年収を考えると、海外留学は決して気軽にできるものではありませんでした。
今になって振り返ると、両親は本当によく送り出してくれたと思います。
20歳そこそこの私は、そのありがたさを十分理解できていませんでした。
63歳になった今、親の立場に近い年齢になって初めて、その決断の重みが分かるようになりました。
さらに私が留学した翌年の1985年には、プラザ合意によって急速な円高が始まり、日本経済も大きく変化していきました。
もし交換留学生試験に合格していなかったら。
もし留学するタイミングが数年違っていたら。
もしあの日、中宮書店で先輩と出会っていなかったら。
今の私は存在していません。
そう考えると、関西外国語大学の交換留学生試験に合格できたこと自体が、私の人生における大きな奇跡だったように思います。
卒業後も母校とのご縁は続いています。
2004年4月、そして2024年3月には、関西外国語大学からお声掛けをいただき、交換留学や海外でのキャリアを目指す学生の皆さんを対象にセミナーを開催させていただきました。
少し熱が入り過ぎて、今思えば「言い過ぎたかな」と反省するような発言もありました。それでも、1984年に交換留学生として送り出していただいた私が、20年後、そして40年後に母校で学生の皆さんへお話しする機会を二度もいただけたことは、大変光栄であり、感慨深い出来事でした。
そのような機会を与えてくださった関西外国語大学には、感謝の気持ちしかありません。学生時代には想像もしなかった形で、母校へ少しでも恩返しができたことを嬉しく思っています。
人とのご縁は、卒業して終わるものではありません。
人生を通して続いていくものなのだと改めて感じています。
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